moonlightの続き
吸血鬼パラレル
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その言葉を声に出して彼に伝えたのはほんの気まぐれでしかない。
「僕に、あなたの血をくださいませんか」
牙からまだ鮮やかな色をした僕の血を滴らせながらこちらを見た彼の表情は、いつもと寸分も違わない。この世のすべてに興味がないとでもいうかのような――生にも死にも自分にも他人にも、当然僕にも――なにも映さない、眸。
だが彼は、僕の言葉に引っかかるものがあったようだった。一蹴されて終わると思っていたのでこれは意外なことだ。自分の言動に彼が反応したことに内心で悦びを享受する。
「なぜ」
「だって、あなたの血をいただけば、僕もあなたの側になれるのでしょう?」
それともこれも愚かな人間の迷信でしかないのでしょうか。
彼は否定しなかった。ただ、瞼を少しだけ下ろして、普段の彼とは思えないほど温度のある声で云った。
「やめておけ」
その言葉は想定内だったが、彼の態度がまったくの想定外で驚く。
「どうしてですか」
「……俺のようになっても、得られるものはなにもない」
「そんなもの、あなたのようにならなくたってありませんよ」
先程下ろした瞼をまた上げて、彼は僕を見た。諌めるような、なだめるような、血の通った色をしていた。
ああ。声もなく慨嘆する。そんな、まるで人間のような眸で僕を見るのに、どうして同じ道を選ばせてはくれないのですか。
「正直に申し上げて、僕は今の職業には役者不足なのです。信仰もしていないのに、神の教えを人々へ説くなんて。仮面を被るのは得意ですからずっと続けてきましたが、いい加減それにも疲れてしまいました。年をとると嘘をつけなくなるというのは本当ですね」
ぺらぺらと喋る僕の言葉を彼はじっと聴いていた。僕が笑いかけると、彼は受け入れまいとするように苦い表情でそれを跳ねのける。
思い返せばいつもそうだった。僕が彼に近づこうとするよりも早く、彼はそれを察知して僕から一歩、遠ざかるのだ。人と人との距離は、両者が縮めようと働きかけない限り縮まることはない。
「――お前、家族がいないだろう」
唐突に彼はそう云った。突然の話題転換とその内容に反応が一瞬遅れたが、僕はすぐに笑顔を繕って答える。
「ええ、物心ついた頃から血を同じくする人間は一人もいませんでしたよ。ですからこんな職に就いているのです。よくご存知ですね?」
「家族のいる奴は、俺の血を欲しいなんて云わないからな」
「なるほど、それは道理です」
では、僕の願いを聞き入れてはいただけませんか?
彼はゆるりと首を振った。
「尚更聞き入れられない」
「なぜ? 僕には愛すべき守るべき家族はいないのです。どうなろうと、どこへ行こうと哀しむ人はいませんよ」
僕の言葉は限りなく本心だった。血の繋がりがなくても、僕を慕ってくれる人は何人もいたが、彼らに心動かされることは一度もなかった。そしてそんな僕の荒んだ心が、一目見ただけで歓喜したのが彼だったのだ。
「――それで」
その彼は僕の外見にも内面にも興味がなく、ただ身体の中を巡る血だけを求めてきたけれど、僕にはそれで充分すぎるほどだった。
「哀しむ人などいないから、夜の住人になると?」
「それだけが理由ではありませんが、理由の一つではあります」
「そうか」
彼はきっぱりと、それ以上の説明を拒むように云った。その真意が測れずに気持ちが急く。
「わかっていただけたのですか? では僕に、」
「駄目だ。お前には、俺の血は絶対にやれない」
それは、明らかな拒絶。
「どうしてですか。僕のことならなにも気にしないでいただいて結構です。ただ、あなたの血をほんの少しいただくだけでいいんです」
彼と同じものになれたら、という小さな想像は、いまや肥大した願望となって僕を彼にすがらせていた。見苦しいほど自分勝手なことを云っているのはわかっている。それでも止めることはできなかったし、止めようとも思わなかった。僕がこんな態度をとるのは彼に対してだけだ。
彼はその手を振り払う。慈悲もなく――否、慈悲だけで。
「俺も同じ理由でこちら側へ来たからだ」
天井の高い建物の中に凛と響いた声に言葉を失くしていると、彼がこつ、と踝を鳴らしてこちらへ近づいた。僕が咬みつくとでも思ったのだろうか、真っ白い手で口を塞がれる。血の乾きかけた咬み痕を彼がことさらゆっくりと、冷たい舌で舐め上げた。今まで感じたことのないような電流が背筋を走って、その衝撃に思わず目を瞑る。
そうして再び目を開いた時、彼はどこにもいなかった。
彼はもう、僕の血を求めに来ない。
それは絶対的な確信だった。僅かな時間の積み重ねと、今日のやり取りで知れた彼は、おそろしいほどに優しかった。優しくて、残酷だ。
夜毎血を求めて彷徨い続けることが楽しいものではないことくらい、容易に想像がつく。それでも、僕のためを思うならなにも云わずにあちら側に引きずり込んで苦しませてくれればよかったのに――それは彼と同一ではなくても近い感情だろうから――それすらできない距離を縮めさせてはくれなかった。
永劫の時と苦しみとあなたと共にあれるのなら、それは一切に勝る悦びだったのに。
彼はもう、僕の血を求めに来ない。
それでも僕は明日の夜、またここへ来ていつものように彼を待つだろう。色褪せて破れた写真をいつまでも後生大事に眺めるように、彼に咬まれた記憶を反芻するだけで、僕はきっと彼を感じて欲を覚えることができるのだ。
(あなたに惹かれているから同じものになりたいと思ったのですと伝えたら彼はどう反応しただろう。試す機会はもう二度とないけれどその甘美な妄想はしばらく自分を解放してはくれなさそうだった)